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『どうして勉強するのか』

あなたは、どうして学校で勉強するのか考えたことがありますか。
私はあります。中学生の頃から考え始めました。そして今も考え続けています。
その答えは少し輪郭を伴って明らかになってきましたが、自分一人で考えるのは不可能です。
なので、先人たちに学ぶことにしました。
本を読んだのです。
そして、この本にめぐり逢いました。
この本は1985年に出版された本なので内容が古いのではないかと思いましたが、そうではありませんでした。
非常に現代的な疑問を提示しています。しかし、疑問に対する答えは示されていません。

でも、重要なことに変わりはありません。
著者の横山 浩司氏は現在、法政大学 社会学部 メディア社会学科の教授です。(当時は助教授)
横山氏の主張は、中学、高校での学校教育(世界地理)を、自分の経験から批判しています。

 たとえば、世界地理などというものを考えてみよう。私たちは、普通、中学校段階で相当広く世界地理の勉強をしている。そのときに、「どうして、こんな勉強するんですか」と先生に聞いたら、ある先生は次のように答えるだろう。「日本は、これから国際的な発展をし、君たちも国際的な視野をもたなければならない。だから、世界の国々のいろいろなことを知らねばならないのだ。」とか、あるいはもっと身近な答えとして、「君たちは、大きくなればきっと海外に旅行するだろう。そのときに、旅行先のことをいろいろと知らなければ、きっと困ることになるぞ。」といった答えである。
 こういったことは、一見もっともなことのように聞こえるのであるが、実はほとんど嘘である。私は、一ヶ月ほどのちに、タイに気ままな一人旅をしようと計画している。タイに行こうと思い立ったときに、学校の勉強によって得られたと思われる私の知識は、たった二つである。一つは、タイのおおよその位置、もう一つは、その国の首都の名前がバンコクであるということだけであった。ところが、今思い出してみると、中学校のときに、私はクラスの誰よりもベトナム、カンボジア、ラオス、タイのあたりの勉強をしたのであった。それは、クラスのみんなが世界中のいろいろな地域を分担して、それぞれの地域の自然や産業や文化の詳細なレポートを書くことになっており、たまたま私が割り当てられた地域が、タイを含んだ地域であったからだ。私はそれなりに熱心に、美しい地図を何枚もかき、また歴史や文化、産業について調べ、レポートを書きあげたことを覚えている。そのときの勉強は、いやいややったというよりも、むしろそれなりに楽しんでやったという気持を今ではもっている。しかし、今その中身はほとんど何も残っていない。
 タイのおよその位置を知っているからといって、タイの奥地にまで旅をしようと考えたときには、ほとんど何の役にも立たない。国境がどこで、どの国とどのように接しているかということを、もっと具体的に知らなくてはならないのである。また、タイの首都がバンコクであるということを知っていたからといって、これもほとんど全く意味のない知識である。そんなことは、今、旅行案内の一頁目を読めばすぐにわかることなのであり、実際には、バンコクという街がどのような街であるか知らなければ、私はそこを旅することはできないのである。

同じようにして、著者は生徒たちの疑問に対して、
中学校や高校の教師がよく使うテンプレートを一つひとつ批判していきます。

教師がよく使うテンプレート1
「漢字が読めなければ、新聞や本を読めないでしょう」
「計算ができなければ、買い物をしたときにも困るでしょう」

反論1
「日常生活のなかで役に立っている学校で学んだ知識、技術というものは、ごく限られた初歩的なものにとどまる。それを超えたさまざまな勉強内容が、子どもの現実の生活のなかで役に立っている、あるいは必要であるとは言い難い。それならば、将来おとなになったときに、それ以外のものがどの程度役に立っているのかというと、それも相当に疑わしい」
「実際には中学校程度の勉強内容が身についていなくても、おとなたちはごく普通に生活を続けている」

テンプレート2
「今どき、高校くらい出ていなくては困る」
「将来、恥ずかしくないように、大学くらい出ていて欲しい」

反論2
「本当に高校や大学へ行くのがよいことであるのか」
「そうして約束されるという生活が本当に幸せであるのか」

反論2に対する教師の再反論
「人よりも高い成績をとったり、よい学校へ行ったりすることは、結局、優越感をもつことになる。
だから、勉強すれば優越感をもつことができるのだ」

再反論に対する反論
「勉強は他との競争に打ち勝つためにだけあるということになる。これほどくだらない、
そして、そのくだらなさによって悲しくなるような説明がほかにあるだろうか。」

テンプレート3(小学校、中学校)
「学校は勉強するところだからだ」
「義務教育だからだ」

反論3
「教育は義務ではなく権利である」

テンプレート4
「自分のため」
「自分の人格を完成させるため」
「人間らしく生きるため」
「よりよく生きるため」
「自分の可能性を広げるために勉強するのだ」
「天分を伸ばすために」
「社会のため」
「文化遺産の継承である」

反論4
「あまりに抽象的で、それらがいったい何を述べたいのか、そして述べようとすることと今ここで勉強していることとが、どのように結びついているのかが少しも鮮明ではない」
「型にはまった理念に過ぎない」

学生が納得しない場合に続く脅迫的な言葉
「どうして勉強するのか。それは、あとで後悔しないためだ」

最後に、おとな、親や教師たちはこう言って切り捨てる。
「おとなになれば、わかることだ」

横山浩司
どうして勉強するのか』(1985)p.24,26,21-22,29-30,38-39,44,46-48

あなたはどうおもう?