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『学校的日常を生きぬけ』

『学校的日常を生きぬけ』(1998)
本書は宮台真司、藤井誠二が共著の学校文化に関する本です。
二人は本書の中で「学校化」をこう定義します。

「学校化」とは、空間的には、家も地域社会も学校的なものの出店になるということ、時間的には、教室にいる時間だけでなく、全生活を覆うようになること。

藤井 学校を取り囲む地域社会が「学校化」されており、そしてその中にある家庭も「学校化」されていると感じます。どこに行っても学校的な価値が支配していて、親が言うことと教師が言うこと、あるいは地域の大人が子どもに対して言うことが全く同じになっているんじゃないか。そうなると子どもは、学校の価値だけに全身を埋没させて生きていかなければならなくなって、居場所がなくなる。でも、その「学校化」というのがどのくらい意識されているのかとなると、ほとんど意識されていないでしょう。
宮台 学校化とは、空間的にいえば、家も地域社会も学校的なものの出店になるということです。時間的に言えば、学校的なものが、教室にいる時間だけでなく、全生活時間を覆うようになることです。大人社会の側から言えば、学校的な機能をバックアップすることが、家や地域社会の機能だというふうに自己認識するようになると言い換えることもできます。
藤井 出店になる、という表現で思い出したのですが、「愛知の管理教育」の象徴的存在である県立東郷高校がある地域というのは、地域ぐるみで「学校」なんです。制服が乱れていたり、帽子を目深にかぶっていなかったりすると、学校に住民から注意の電話がかかってくる。缶ジュースの空き缶をそのへんにポイ捨てなんぞしようもんなら、「どんな教育してんだ」と抗議の電話です。だから、教員は通学路の辻々に立って通行整理したり、バス停にまで行って、順序よく高校生をバスに乗り込ませたりしていた。地域の視線が気になるからです。自校の生徒が本屋にはいるときは、鞄を外に置いてから入店させるようにしたりもしてました。万引を防止するためです。だから、生徒たちは学校から離れれば離れるほど、バスの中などでダラッと脱力するようになる(笑)。
p.16-7

つまり、空間的には家や地域社会の中心に学校があるということです。すると当然学校的価値観が最上位の規範となるのです。
全身を埋没させて、生きていかなければならなくなり、それに適応できないと居場所がなくなる。

時間的にも、学校的なものが、全生活時間を覆う。

地域の目が張り巡らされており、学校から離れるに連れて、脱力するようになる。

藤井 「満員電車状態」という言い方を宮台さんはされていますが、まったく的を得た言い方だと思う。サラリーマンは満員電車にすし詰めにされて苦痛を味わいながらも我慢して会社にいくというのは、理由があるからです。ラッシュアワーの苦しみに一時間も二時間も耐えるというのは、無意味ではないと自分に言い聞かせている。でも、中学生たちはそれがない。p.33
満員電車に乗り続けることは、辛いです。「痛勤」という言葉まであります。しかし、サラリーマンは1~2時間も耐えて会社に行く意味があると思っていますが、中学生たちにはそれがありません。

藤井 中学生って一番動員されやすいんです。愛知県の中学校っていうのは、日曜日や長期休暇に空き缶拾いとか、朝に駅前清掃だとかをやらせる学校が多い。それを何故やるのかというと、その地域の中で学校の居場所、学校の地名度を上げるためだったりとか、良き地域、良き生徒というのを作りたいがためにです。まさに学校化。地域も学校の出店状態。 小学生を動員すると、子どもがかわいそうじゃないか、と地域で言われるし、高校生だとかったるいぜ、行かないぜ、となるんだけど、中学生ってどっちでもなくて、従わなきゃいけないし、かつ内申書がある。調査書もある。高校受験で推薦もあるわけだから逆らえない。動員に行くと点数が上がる。いちばん人質をとられてる。そうやって自分で自分を縛ることもやるのだから、本当に中学生というのはキツいと思います。p.46

小学生と高校生の間の中学生こそが、一番学校から動員されやすい世代だということです。学校が学校化を推し進める時に、一番被害者になるのは中学生なのかもしれません。

藤井 酒鬼薔薇聖斗事件についてのことですが、一部の先生は「うちの生徒じゃないか」って気がついていたという報道がなされました。女子児童殴打事件のとき、幸いにして命をとりとめた女の子の証言で、友が丘中学の制服のことや、「おにいちゃんにやられた」と言っていたんです。教員で気がついていた人はいたと思う。宮台 当然、気がついてたんでしょう。藤井 自分の中で対応できるんだという、体験の幅に裏打ちされる自信がなかったと思う。これは友人の中学校の先生が言っていたことですが、学校内や近辺で猫が殺されたり、鼠の足が切られたり、蛇の死体が下駄箱に入っている事件があると、教師は「逃げる」のだそうです。かかわらないようにするという意味です。入れた生徒と入れられた生徒が分かっていても、その問題から逃げようとする。なぜかというと気持ちワルイ、わからない、怖い、から。かかわりだすと底なし沼にはまっていくような恐怖感が教師の中にはある、と。p.58

その一方で、学校化した地域で発生した事件については、教師は逃げてしまいます。学校内や近辺で猫が殺されたり、鼠の足が切られたり、蛇の死体が下駄箱に入っているような動物虐待事件が発生した場合、教師は逃げてしまう。その犯人に目星がついていてもです。そして、その理由が「かかわりだすと底なし沼にはまっていくような恐怖感がある」からです。

藤井 現場の教員は、子どもについては自分が最もわかっているはずだという自負があります。だからカウンセラー的な人が介入してくると、子どもは担任にまず一番目に相談してくるはずなのに、それがカウンセラーに行ってしまうと、嫉妬の念に燃えるわけです。教員は自分の自負を放棄できない。養護の先生と話をしていると、保健室登校をしたり、授業にいられなくなって保健室に行くということが、担任の教師にとってはたまらないことらしいんです。それで養護の先生がが逆恨みされる。養護の先生が子どもをたぶらかしているんだと。だから、担任の先生が保健室を覗きに来て、自分の悪口を保健の先生に言っていないかとかチェックに来たり、あの子何か言ってませんでしたとか、いろんな手を使って自分の方に戻ってこさせようとするんだそうです。
p.72-3

現場の教員は、カウンセラーが介入することを嫌います。自分が教室や学生を管理していると思いたいし、幻想をもちたいのです。でも、実際に保健室に頻繁に行く学生がいたり、保健室で休んでいる生徒がいると、養護の先生を逆恨みしたりします。それで、養護の先生に自分の悪口を言っていないかチェックしたり、自分の方に戻ってこさせようとします。

日本の教師たちは「学校内的第四空間」、つまり避難場所を認めたくない気持ちが強い。でも、自分自身の育ち方を見直してもらえば、だいたいみんな思いあたることがあるはずです。

藤井 日本の先生たちはそれが素直に言えない。だから、保健室なり図書室なりという、宮台さん的に言うと「学校内的第四空間」、そういう避難場所を認めたくないという気持ちが強いんです。学校の中の第四空間ってぼくはすごく大事だと思う。
宮台 まあ、ぼくで言えば、屋上ですね。
藤井 宮台さんは中学生の頃、屋上で物思いに耽っていた。例えば山本直樹さんの『BLUE』というマンガで、女子生徒が屋上に建っている誰も入ってこないような何かの部屋でまったりとセックスに耽って、ドラッグをやったり、卒業した先輩が来てセックスしたりする。そこで人生の深淵を垣間見たりもする。いいなあ、と思うけど、でも屋上って今ほとんど上がれないんだよね。
p.73-4

ここでは、保健室、図書室、屋上などが挙げられています。他には、俗に言う体育館の裏のような場所でしょうか。

どういう条件を満たさないと第四空間にならないのかということについて、慎重にシミュレーションする必要がある。それは見えすぎちゃ駄目だし、全く見えないと危険なんです。だから、そこそこ見えないけど全く見えないわけじゃないという微妙な、村落の若衆宿と同じような場所である必要がある。もちろん、昔も今もそういう場所なんだといった、時間的な一貫性が本当はあった方が安心なんですけどね。
 これはちょっとグロテスクかも知れないけど、ある地方の保健の先生を取材したときの話です。
その方はその土地で25年間保健の先生をやっていて気がつかなかったことなんだけど、お祭りのときに無礼講の伝統がまだあった。ある成績優秀な女の子が夏休みが終わると、突然化粧するようになって、服もケバくなり言葉使いも悪くなる。どうしてなんだろうと救済しようとしても全然受け付けてくれない。ところが、ある事件がきっかけで、すべての謎が解けるんです。6人の中学生が中二の女の子を学校のトイレで輪姦する校内レイプ事件がお祭りの夜に起こったんですね。警察に訴えるかどうかってことで保健の先生がお父さんの所へ行くんですが、お父さんの反応がいまいち鈍い。最後にお父さんが言うには、「うちの近所じゃお祭りの日には昔からこういうことがあって、実は俺も若いときはやってたんだ。あんたよそ者だから分からないかも知れないけど、こういうことで人権問題とかで訴えたら生きていけないんだよ、うちの町じゃ」、と。
 性暴力の問題としても別に論じなければいけないけれど、そのお父さんにしてみれば、自分が昔からやっている風習の範囲内で起こっているに過ぎないという時間的一貫性があるから、問題じゃないわけです。第四空間の問題というのは、実は時間的一貫性がキーワードになる。そうすると、日本の伝統的な村落の中の第四空間的な場所で、何が行われてきたのかってことが問題になる。するとこれは、今の人権主義的な発想と必ずしもマッチしないということで、非常に難しい問題がでてくる。だからこそ慎重なシミュレーションが必要だと言っているんです。全てシャンシャンと行くわけじゃないんだけど、ただ一般問題として言うと第四空間は必要であると。そこは完全な無管理にあってはまずいが、管理されすぎたらもっとまずくて、第四空間にならないということです。
藤井 第四空間のある種の密閉性の中で行われるってことは、そこに出入りする人間がある程度自己責任を負って、起きる出来事はその中で解決していかなければいけないってことがあると思う。人権主義でいくと、そのお父さんがやってきたことも夜這いの風習も無礼講もすべて人権侵害。村落共同体の中の伝統文化というと聞こえはいいけれど、なんだただの女を抑圧してきただけの男のご都合主義じゃないかということになります。
 だから、ぼくが第四空間で非常に大事な要素だと思うのは、いわゆる人権だとかいろんなルールにあてはまらない出来事もいっぱい起きたとき、そういうことを第四空間を構成していく者たちの中でどうやって対処、処理をしていくか、という自治能力、自浄能力の問題につながっていって、そことどう向き合っていくかってことになる。教師は基本的に子どもを信用していないから、自治や自浄のトレーニングさえ認めません。しかし、問題やトラブルは起こる。パウロ・フレイレの言う「自由への恐怖」じゃないけれど、それを自明なこととして受け入れて、第四空間を作らなきゃいけない。
p.76-8
第四空間は、見えすぎちゃ駄目だけれど、全く見えないと危険な場所です。お化け屋敷みたいな場所でしょうか。
または、完全な無管理にあってはまずいが、管理されすぎたらもっとまずくて、第四空間になりません。
そこの中にいる人たちだけで管理しないといけません。自治能力、自浄能力がなければならない。

宮台 ぼくが東大で長い間非常勤をやっていて思うのは、東大に入ってくる、良い大学に入ってくることが、ものすごいコストがかかっているというか、多くのものを犠牲にしていることを意味するようになったということです。ぼくらの頃は、同級生なんかで塾に行かないで東大に来る奴が結構いた。特に女の子。中間テスト・期末テストの勉強をしているだけでさしたる受験勉強しないで入学してしまう。ということは、つまり昔の良い大学に入ってくる人間は、本当に賢くて入ってくる人間が多かったと思う。
藤井 今は親の莫大な教育投資の産物としてくるわけだ。
宮台 本人たちはそのことをよく知っていて、自分たちが学校化された日常に過剰に適応したせいで、例えば受験勉強をしている間に街に出ていろんな人間と付き合ったり遊んできた連中に比べれば、遊びも知らないし、社交性というか人付き合いの能力にも問題があるという自覚がすごくある。それが強烈なコンプレックスになってる。
 そうなるかもしれないということが中学・高校から薄々分かっているんだけれども、レールの外側の道を選択する勇気がなくて、周りが一所懸命勉強しているので自分も勉強しているというある種の同調行動をしてきた。そういう中で、漠たる不安を抱えながら、東大とか都立大とか入ってきて、案の定駄目だな、と思うわけです。明らかに失ったものが大きすぎる。リカバーしようにも方法がないから、藤井良樹君の言うところの「日常のしのぎ方」をぼくに聞きに来る。「どうやってぼくは生きたら良いんでしょうか。」って。もう手遅れなんですけど(笑)。
p.85-6

良い大学(東京大学)に入ってくる学校化された学生は、遊んできた連中に比べれば、遊びも知らないし、社交性というか人付き合いの能力にも問題がある、と自分で思っています。強烈なコンプレックスになっています。レールの外側を選択する勇気がありません。そして、その期間に失ったものが大きすぎる。

藤井 反学校的身体こそ生きる力があると宮台さんは言われましたが、ぼくもまったく同感です。反学校的身体を生きるということは、決して学校を破壊するとか、教員を殴るとかそういうことではないのです。学校を支配する価値、つまり点数至上とか、協調性のある良い子とか、先生の言うことをよく聞く生徒とか、つまり「中学生らしさ」や「高校生らしさ」に自分を押し込めない奴が強い。
 そして、もう一つ重要なのは、学校というシステムは怒りやストレスを量産していくことはあっても、それを自分の中でうまく回避したり、ガス抜きしたりする機会がまったくないことです。
p.252-3

反学校的身体とは、点数至上とか、協調性のある良い子、先生の言うことをよく聞く生徒に当てはまらない生徒のことを言います。