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懐疑主義の責任

これから私は、懐疑主義について説明していきたいと思います。
と言っても、ほとんどが本からの引用になってしまいますが。

 相反するふたつの条件が絶妙なバランスを保つ、必要なことはそれだけでしょう。要するに、現状では支障がないと思われる仮説であろうと、いつでも疑問をさしはさめる慎重な姿勢をとりつつ、その一方で新しい発想に対しても視野を広くもってのぞめということです。もしここで、疑うことしか知らなければ、新しい発想を受けいれることはできないでしょう。何も学びとることはできないのです。否定的言辞が支配する世界に満足した、偏屈な老人になるのです(もちろん、充分なデータが味方です)。
 逆にお人好しで疑り深さのかけらももっていなければ、その発想が有益なのか無益なのか、その区別がつけられないでしょう。何を見てもみんな正しく思えた時点で、すでに判断力は失われています。なぜなら、欠点のまったくない発想などあり得ないと思うからです。

カール・セーガン「懐疑主義の責任」

1987年、パサデナでの講演より

マイクル・シャーマー
なぜ人はニセ科学を信じるのか』(1997)