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(ブラック)フェミニズム

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有色人種の人々が文学、演劇、テレビ、映画の中に自分たちの姿を認識する機会はめったにない。『ガールズ』のような番組を見て、有色人種の女性が完全に置いてけぼりにされたように感じるのは、あまりに簡単なことで気が滅入る。私たちが「粋な」黒人の友人か乳母か秘書か地方検事かマジカル・ニグロ以外で自分自身を目にするのは稀だ。これらは背景に追いやられている役であり、真実味も深みも複雑さも完全に欠如している。
 私たち黒人女性にとって『ガールズ』に相当するような数少ない番組のひとつがマラ・ブロック・アキルによる『ガールフレンズ』である。(中略)私はなぜだか『ガールフレンズ』を楽しめるようになるまで長い時を要したが、いったんこの番組と恋に落ちると、激しく落ちた。ようやく私は大衆文化の中に自分自身についてのものを見出したのだ。
ロクサーヌ・ゲイ『バッド・フェミニスト』(2014)p.70-1

『エイジ・オブ・イノセンス』(1993)の
メイ・ウェランド[2][3]

『エイジ・オブ・イノセンス』(1993)の
エレン・オレンスカ[2][3]

 率直に言って、私は好感を持てるとされている「良い」キャラクターがむしろ耐えがたく思う。たとえばイーディス・ウォートン『エイジ・オブ・イノセンス』のメイ・ウェランド。メイの好ましさは、公平を期して言えば、精巧に作りあげられた、ウォートンによる選択であり、それによってニューランド・アーチャーのオレンスカ伯爵夫人へ向ける情熱がひときわ悩ましくほろ苦いものとなる。それでもやはり、メイは常にすべてを正しく、彼女に期待されているように行う類の女性だ。完璧な上流社会の淑女。いかに体裁を整えるかを知っている。その一方で、誰もがメイの暗黙のライバル的従姉妹、オレンスカ伯爵夫人のことを見下している。社会のしきたりに挑むことを厭わず、悲惨な結婚に耐えることを拒否し、たとえその相手が不適切な男性であっても、自分の人生に真実の情熱を求める女性だ。
 私たちは彼女を好まないとされているのだが、しかしオレンスカ伯爵夫人は私の興味をそそる。なぜなら彼女は興味深いから。彼女は社会的慣習の霞から離れたところに立っている。私たちは、きちんとした、愛らしい純潔な人間であろうとしているメイを好むか、少なくとも尊敬するべきなのだ。しかしウォートンの巧妙な手にかかると、私たちは次第にメイ・ウェランドを人間として、つまり他のどの人もそうであるように、好感の持てない人として見るようになる。好感度の問題は、もしすべての作家がイーディス・ウォートンぐらい才能があれば、もっとずっと我慢できるものとなるのだろうが、悲しいかなそうはいかない。
ロクサーヌ・ゲイ『バッド・フェミニスト』(2014)p.109-10
『ゴーン・ガール』はある一筋の怒りの流れに貫かれており、エイミーにとってその怒りは、たいていの女というものが耐えるよう強いられている理不尽な重荷から生じている。この小説はサイコ・スリラーだが、素晴らしいキャラクター研究でもある。エイミーは、誰に聞いても、理想的な女性である。彼女は「賢くて、愛らしくて、感じのいい子......彼女にあるのはたくさんの"関心"と"熱意"、かっこいい仕事、愛に満ちた家庭。そして言ってしまえば、金」。これらの美点すべてを手にしてなお、エイミーは気づけば32歳で独身で、そこでニックを見つける。 『ゴーン・ガール』の何がそんなに私たちを気まずくさせるのかというと、その正直さ、そしていかに私たちの多くが、そのお互いに愛し合い憎み合う様において、絶望的にニックとエイミーによく似通っているかである。
ロクサーヌ・ゲイ『バッド・フェミニスト』(2014)p.121
 フィクションに登場する好感を持てない女性たちに関して、滅多に口に出されることがないことだ-彼女たちは偽っていない、自分でない誰かのふりはしない、あるいはできない。そのためのエネルギーも欲望も持っていない。自分に要求される役を演じたメイ・ウェランドの意欲は、彼女たちにはないのだ。『ゴーン・ガール』で、エイミーはひとりの男の求める女でいるという誘惑について語るが、しかし彼女は最終的に「彼の好きなクソくだらないものすべてを好んで不満を言いさえしない女の子」になるという誘惑に屈しはしない。好感を持てない女性はその誘惑に身を任せることを拒否する。彼女たちは、その代わりに、彼女たち自身なのだ。彼女たちは自らの選択の結果起こることを受け入れ、それは読むに値する物語となる。
ロクサーヌ・ゲイ『バッド・フェミニスト』(2014)p.122
私たちみんなの中のレイシズム
 トニー賞を受賞したブロードウェイ・ミュージカル『アヴェニューQ』で人気のある曲のひとつが「誰もがほんのちょっとだけレイシスト」だ。「たぶん私たちみんな向き合うべき事実/誰もが人種をもとに判断してる」のコーラスで締めくくられる。この歌詞にはたくさんの真実がある。誰もが他人について評価を下し、そうした評価にはしばしば人種が絡んでくる。私たちは人間だ。私たちには欠点がある。ほとんどの人々はただ単に何世紀にもわたる文化的条件付けのなすがままなのだ。ほとんどの人がそれぞれほんのちょっとだけレイシストだが、しかし彼らはクラン(KKK)の集会のように行進したり十字架を燃やしたりモスクを破壊したりはしない。私たちの中でもましな部類の人々は、成功の度合いに差こそあれ、その文化的条件付けに打ち勝とうとしている。
ロクサーヌ・ゲイ『バッド・フェミニスト』(2014)p.346
 私は自分が進歩的で心の広い人間だと思っているけれど、それでも私にも偏見があり、『ヘルプ』を読み、観ることを通して自分がすごく偏っている可能性に気づいて胸が痛んだ。本当のところ『ヘルプ』のどこが私の気に入らないかというと、これが白人の女性によって書かれていることだ。脚本は白人男性によって書かれた。映画は同じ白人男性によって監督された。こう思うのは間違っているとわかっているけれど、それでも「よくもまあ」と思ってしまう。
 違いを書くのは複雑だ。文化的収奪、ステレオタイプの強化、歴史の修正ないし軽視、差異または他者性を貶め陳腐化することを避け、違いを正しく扱うことがまったくもって難しいと示す例はいくらでもある。書き手として私たちは常に「どうやったら正しくできるだろう?」と自問する。人種問題を正しく扱おうとするとき、異なる文化的背景と経験を持つ人々の人生を想像したり改めて想像するための誠実な方法をみつけようとするとき、この問いはひときわ重要なものとなる。違いを書くことには微妙なバランスが求められ、どうしたらそのバランスを取ることができるのか私にはわからない。
ロクサーヌ・ゲイ『バッド・フェミニスト』(2014)p.254-5

ハティ・マクダニエルのアカデミー助演
女優賞受賞(第12回アカデミー賞にて)

オクタヴィア・スペンサーのアカデミー助演
女優賞受賞(第84回アカデミー賞にて)

苦闘の物語を超えて
 ハティ・マクダニエルは、1939年、『風と共に去りぬ』のマミー役で、黒人として史上初のオスカーを受賞した。マクダニエルは偉大な女優だが、好むと好まざるとにかかわらず、彼女の仕事はメイドの役ばかりだった。それというのも当時、大衆文化が受け入れる黒人女性の唯一の姿が家事労働を強制されるメイドしかなかったからだ。2012年、オクタヴィア・スペンサーは、オスカーの四部門にノミネートされた、大人気だが問題含みの作品『ヘルプ~心がつなぐストーリー(原文ママ)』で、メイドのミニー・ジャクソン役を演じてオスカーを獲得した。ポスト人種社会アメリカについての浅い修辞が世にあふれている一方で、ことオスカーとなると、ハリウッドは銀幕において黒人をどんな風に目にしたいのか、極めて明確な見解を持っている。例外はもちろんあるが、しかし、黒人の苦闘または隷属を改変した上で成り立つ黒人映画が批評家から高い評価を得ることがあまりにも多すぎる。
ロクサーヌ・ゲイ『バッド・フェミニスト』(2014)p.269
 奴隷の物語を語る、または黒人の経験を辿る方法はひとつではない。隷属と苦闘の物語を分かち合うべきではないというわけではなく、こうした物語ではもう足りないのだ。観客は黒人映画からもっと多くを受け取る準備ができている-より多くの複雑な語り、より多くの黒人の経験が現代映画で表現されること、より多くの芸術的実験、より多くの黒人脚本家および監督がその創造的才能を苦闘の物語を超えて使うことができるようになること。私たちはより多くのあらゆるものを待っているのだが、しかしあまりにも長いあいだ、いつも同じ、ひとつの物語を目にしてきた。
 しかし、誰もがみな変化への準備ができているというわけではない。『それでも夜は明ける』は2013年のオスカーの9部門にノミネートされ、最優秀助演女優賞、最優秀脚本賞、最優秀作品賞を受賞した。
ロクサーヌ・ゲイ『バッド・フェミニスト』(2014)p.275
『ヘルプ』においては、ひとりだけでなく12,3人のマジカル・ニグロが奴隷体験の物語を伝え、うぶで世慣れないユージニア・"スキーター"・フェランが、堂々として人種意識の高い自立したキャリアウーマンへと成長するのを助けることを通じて、その神秘的な力を世界をより良い場所にするために使う。マジカル・ニグロの修辞が好きな人にとっては、たくさんありすぎて選択肢に困るほどだ。
ロクサーヌ・ゲイ『バッド・フェミニスト』(2014)p.245-6
この映画の物語はシーリアが間接的にミニーを励まして虐待夫から逃れさせたとあなたに信じさせようとする。まるでミニーほどの人格と性格の強さをもってしても、そんなことすら彼女ひとりではできないとでも言うように。それからシーリアはミニーのためにご馳走を料理し、家政婦が白人の仲間と同じようにダイニングテーブルに座ることを許すのだ。アアアアだから何だってんだ。ミニーは尋ねる。「私はクビになってないの?」。シーリアと夫は言う。「一生ここで働けばいい」。ミニーは、もちろん、感謝と喜びに顔を輝かせる。なぜなら『ヘルプ』のこことは別のサイエンス・フィクション世界においては、生涯にわたって白人家庭に隷属し骨の折れる仕事をひどい低賃金でこなすことは、黒人女性が望みうる最良のものであり、宝くじに当たったようなものだからだ。
ロクサーヌ・ゲイ『バッド・フェミニスト』(2014)p.249
 もしあなたが脳みそを持って『ヘルプ』に臨んだなら、この映画は想像以上にひどく感じられるはずだ。『ヘルプ』を批評的な視線で観ることはひどく苦しい。ある場面で、シーリア・フットにフライドチキンの作りかたを教えながらミニーは言う。「チキンを揚げると人生はいいもんだって気分になる」。この10年に制作された本と映画の両方に揚げ物の調理に見出される癒しについてのセリフがあるということは、人種問題に関する正しい行いにおいて私たちが現在どこにいるのかに関して多くを語っている。私たちはどこにもいない。これは私をたじろがせ、泣かせ、ぎょっとさせ、両手で顔を覆わせた数多くのセリフのうちのひとつである。不快だったと言うのでは控えめすぎる。
ロクサーヌ・ゲイ『バッド・フェミニスト』(2014)p.252
 男性は、黒人も白人も、この映画ではだいたいのところ不在だ。どうやら白人男性たちは、1960年代ミシシッピの人種関係にまつわる責任を免除されているようだ。この映画は白人男性のために働く黒人女性たちが直面した性的搾取、暴行、ハラスメントの現実にまったく言及していない。私たちは歓迎されない尻のひと摑みすら目にしない。リンチも一度も出てこなかったはずだ。私たちはどうやってエイビリーンが息子をもうけるに至ったのかを知らないので、彼女はマジカルだから処女懐胎なのだろうかと推測するしかない。ミニーの夫は、私たちの目には触れないのだが、虐待夫だ。私たちは彼女が虐待されているのを電話の最中に耳にし、映画の終わり近くにミニーの顔のあざを目にするが、しかしこうした暴力行為を働いた男であるリロイの姿を見ることは決してない。ここには、蛮行とつきあっていかなくてはならないのは口答えをする女性であるという奇妙な含みも存在している。黒人男性たちが言及される場合も、人物描写は極めてありがちで、気が滅入るような、単純化された扱いだ。この映画は不在の黒人男性の神話に溺れて恥じることがない。
ロクサーヌ・ゲイ『バッド・フェミニスト』(2014)p.253
スキーターの子どもの頃の乳母だったコンスタンティン(シスター・タイソン)は27年以上にわたって仕えた家族にクビにされて打ちひしがれ、傷心のままこの世を去る。全体としてまるで彼女の生きる意志が白人たちのトイレを磨き尻を拭うことから生じていたかのような印象を与えている。こうした白人の願望充足は、この映画をさらに不快なものにしている。
ロクサーヌ・ゲイ『バッド・フェミニスト』(2014)p.253
 スキーターは、白人の家を掃除し、白人の赤ちゃんを育てることに生涯を費やしてきたメイドたちの物語を伝えようと言う冴えたアイデアを思いつく。たとえ彼女が演じているキャラクターが故意に物を知らない人物にされていても、ストーンは魅力的で説得力がある。だが、その魅力は癪に障る。なぜなら、この未熟な小娘がマジカル・ニグロたちをなんとか職業的告白による精神の浄化作用を介した救済へと導いたものと想像することは、かなりの欺瞞に違いないからだ。
ロクサーヌ・ゲイ『バッド・フェミニスト』(2014)p.250
『ヘルプ』の終わりには、スキーターはニューヨークでのあこがれの仕事の口を断ろうとする。そうすればこのままここにいてエイビリーンとミニーを「守る」ことができるから、と。私たちはこれを心あたたまるふるまいと受け取るものとされているが、しかしそれは映画全体の恩着せがましさを苦い安堵へと変えるだけだ。
ロクサーヌ・ゲイ『バッド・フェミニスト』(2014)p.250
 アイオワ州のレズビアンのカップルのことが思い浮かぶ。彼女たちの息子ザック・ウォールスは、2011年にアイオワ州議会司法委員会の前で、ふたりの女性によって育てられた子どもとして証言した。彼は同性婚を支持する立場から話をした。彼は情熱的で雄弁で、本当に両親の誇りだった。彼の証言の動画はインターネットで広く行き渡った。私はそれを見るたび、興奮するのと同時に憤りを感じた-憤ったのは、クィアの人々は常に、ほんのすこし認識されるためにものすごく勤勉に闘わなければならないからだ。異性愛の親たちに、彼らの子どもがよき市民のお手本であることを証明するよう求める人なんて誰もいない。クィアの親たちが直面する障壁は不公平に、不必要に高い。しかしこの彼のような若者たちがその障壁を跳び越えていくのだ。
ロクサーヌ・ゲイ『バッド・フェミニスト』(2014)p.194

※このページは、ロクサーヌ・ゲイ『バッド・フェミニスト』(2014)を参考にしました。

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