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バックラッシュ(80’s)

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『サイコ』(1960)のシャワーシーン[2]

女性の恐怖を扱った映画はヒットする。大当たりする。1960年、ヒッチコックの『サイコ』の、シャワーを浴びているジャネット・リーがアンソニー・パーキンスに刺し殺されるというシーンは、観客を震えあがらせた。観客はそれまで映画でそのような場面を見たことはなかったのだ。今ではそうした場面は掃いて捨てるほどある。恐怖、拷問、強姦、手足切断、殺人といったものが、有名な監督の手から女優たちに、まるでバスの乗客に切符を渡すような手軽さで、手渡される。(スミス p.33)

ピーター・サトクリフ(ヨークシャー・リッパ
ー)が逮捕される前のニュース(1980)

『殺しのドレス』(1980)のオープニングと
エンディング

『血ぬられた花嫁』(1980)のオープニング
(ヨークシャー・リッパーの事件と『殺しのドレ
ス』『血ぬられた花嫁』などの切り裂き映画は、
特別な関係があると感じた女性たちは、映画館
にピケを張り、襲撃すらした)

<切り裂き映画の暴力行為は性行為と
関連の深い場所に設定される>

『白と黒のナイフ』(1985)のオープニング

『ミッドナイトクロス』(1981)のトイレ

『ミッドナイトクロス』(1981)のシャワー室

切り裂き映画は、そうした暴力行為にきわめて性的な意味づけをほどこすことによって、「正常」なのだという印象を強化する。しかも、暴力的でない、「日常的」なセックスをたえずほのめかすことによって、観客が観ているものの意味を混乱させる。まず、しばしば場面は、寝室とかシャワーといった、とくに性行為と関連の深い場所に設定される(『白と黒のナイフ』では被害者はベッドに寝ているし、『ミッドナイトクロス』ではシャワー室での殺人シーンが繰り返される)。(スミス p.36)

『血ぬられた花嫁』(1981)の女性が追われる
シーン(ナイフを持った男とボーイフレンドの、
どちらが彼女を手に入れるかの競争)

<切り裂き映画で強姦され、殺される女
たちは、さまざまな点で罪がある>

『ボディダブル』(1984)の窓辺のシーン

『サイコ』(1960)の会社での横領シーン

犠牲者は、毎晩わざと灯をつけた窓辺で服を脱ぐという形の性的露出症によって男を挑発し、惨殺される。この種のジャンルの先鞭をつけたといってもいい。『サイコ』は、より巧妙に粉飾されているとはいえ、そのメッセージはほとんど同じだ。ジャネット・リーがノーマン・ベイツに殺されるはめになるのは、性的な動機で犯した罪-彼女は妻ある男性と駆け落ちするために、優しくて思いやりのある雇い主から4万ドル盗んだ-の結果なのだ。(スミス p.38)

<切り裂き映画で危険なのは、男性性
ではなく女性性(女らしさ)>

『殺しのドレス』(1980)のあなたの後ろシーン

意外にも犯人は女装したエリオット博士だった。彼は女になりたいという願望の持ち主だったのだ。このようにして、事件は、嫉妬を動機とする女と女の争いに巧みにすり替えられる。(『サイコ』と同じく)男たちはいっさい罪に問われない。メッセージは明らかだ。危険なのは男性性ではなく、(エリオットの性格の「女性的」側面に代表される)女性性なのだ。(スミス p.39-40)

『サイコ』(1960)の母親に関する真実のシーン

『殺しのドレス』(1980)のエレベーターシーン

『危険な情事』(1987)の風呂のシーン

私たちは『サイコ』から出発して、ぐるりと円を一周し、また出発点に戻ってきた。『サイコ』では(デ・パルマの『殺しのドレス』でも)殺人犯は女装した男だった。そうした設定が何を言わんとしているかといえば、それは、男の「女性的」な部分は危険で、信頼できない、抑制すべきものである、ということである。『危険な情事』はこの考えをさらに押しすすめる。ここでは殺人をおかすのは実際に女性である。もうお分かりだろう。切り裂き映画に共通するテーマは、「女性は、一見すると被害者のように見えるが、じつは加害者なのだ」というものだ。暴力シーンでは男のほうが主導権を握っているように見えるが、彼はたんに先制攻撃を仕かけているにすぎないのだ。男たちよ、女性を警戒せよ。女らしさの襞の間にはナイフが隠されている。(スミス p.49)

『妾は天使ぢゃない』(1933)のメイ・ウエストの
セリフ「自分の考えを自分ではっきり発言しなさい!
さもないと、その辺の敷物で終わってしまうわよ!」
が、当時の映画制作倫理規範に引っ掛かってしまう

<1930年代 矮小化して描かれる自立した女性>

『ベビイお目見得』(1934)で"マレーネ・
スィートリッヒ"を演じたシャーリー・テンプル

<1940年代の自立した女性像>

『ヒズ・ガール・フライデー』(1940)でロザリ
ンド・ラッセルはフィアンセに対して「私を変えよ
うとするのでなく、私のあるがままを受け止めてく
れなくては。田舎でブリッジを楽しむタイプじゃな
いし、第一、私は新聞記者なのよ」と言った。

『アダム氏とマダム』(1949)で弁護士役を
演じたキャサリン・ヘップバーン

<エイドリアン・ラインが監督した経済的
に自立した女性を黙らせる映画>

『危険な情事』(1987)のアレックス・フォレスト

『ナインハーフ』(1986)のエリザベス・マクグロウ

<気丈さを好意的に描かれる女性役は、子ど
もたちを自然の災害から守る農家の母親>

『プレイス・イン・ザ・ハート』(1984)の
エドナ・スポルデイング

『ザ・リバー』(1984)のメイ・ガーヴェイ

『カントリー』(1984)のジュエル・アイヴィー

<横取り上手な独身女性から家族を
守ったり、母親を好意的に描く映画>

『テンダー・マーシー』(1983)のローザ・リー

『月の輝く夜に』(1983)のローズ

『愛と追憶の日々』(1983)のオーロラ・
グリーンウェイ

『エイリアン2』(1986)のエレン・リプリー
とニュート(ヒロインの強さは母の強さ)

『潮風のいたずら』(1987)のジョアナは、
主婦の環境が気に入っていく

<イメージチェンジをしたかったグレン・
クローズ(80年代後半のハリウッドでは、選択の
余地がなく、かなり誇張された良い女か、かな
り誇張された悪い女を選ぶしかなかった)>

『ガープの世界』(1982)のジェニー・フィールズ

『ナチュラル』(1984)のアイリス・ゲインズ

<良妻賢母とキャリアウーマンの対決>

「女の顔に一発、くらわせろ!」
 観客が映画に向かって叫んでいる。「ケリを入れろ!」と別の声が飛ぶ。男性主人公に聞こえるようにとでも思っているのか、すっかり本気だ。
 ここはカリフォルニア州サン・ノゼ郊外の映画館センチュリー21シアター。1987年10月、月曜の夜にもかかわらず、『危険な情事』を上映する映画館は満員だ。すでに公開されてから6週間もたっているのだが、相変わらず映画館は一杯の人。独身のキャリアウーマンが妻子持ちの男性を誘惑し、幸せな家庭を壊すという話に対し、最前列にいた男性客は主人公のマイケル・ダグラスにまるで哀願するかのように「女を殴り倒しちまえよ! 頼むぜーッ!」と叫ぶ。続いて後ろの席からも「やっちまえ、マイケル! 早く殺しちまえ!」だ。
 映画館のロビーでは、まだ10代の清掃係りが床に散らばったキャンディーの包み紙を掃除しながら、ドアから漏れてくるヤジに顔を見合わせて不審そうな顔をする。その一人、高校生のサブリナ・ヒューズはコークの自動販売機係りだが、大人たちのこうした行動がどうもよくわからない。遠くから観察していると、文化人類学的違いが見えてくる。「時々、場内へ入って最後の20分間ぐらいを見るのだけれど、叫んでいるのはみんな男の人なの。女の人たちが大きな声を出しているのを見た事がない。ジーッと沈黙して座っているだけなの」
スーザン・ファルーディ『バックラッシュ』(1991)p.115

『危険な情事』(1987)の元々の結末だったが観客
の反応が「カタルシスが起きない」というものだった

『危険な情事』(1987)のエンディング

<主婦が家を出る決意をして、自分の
本当の声に気づく>

『わが愛は消え去りて』(1970)のベティナ
「ティナ」・バルザー

<女性の解放に男役の助けは必要ない>

『卒業』(1967)のエンディング

『プライベート・ベンジャミン』(1980)の
エンディング

このシーンは、1967年の『卒業』のあのエンディングを思い出させる。しかし、『プライベート・ベンジャミン』は、同じ結婚からの脱出を描くにも、シナリオはあくまでフェミニスト版だ。『卒業』がキャサリン・ロスとダスティン・ホフマンの二人の脱走であったのに対し、『プライベート・ベンジャミン』ではジュディーひとりの快挙だ。もはや女性の解放に男役の助けは必要ないのだった。
スーザン・ファルーディ『バックラッシュ』(1991)p.129

<1970年代の女性像>

『わが青春の輝き』(1979)のシビラ・メルビン

『ジュリア』(1977)のリリアン・ヘルマン

『ノーマ・レイ』(1979)のノーマ・レイ
・ウェブスター

『9時から5時まで』(1980)のジュディ
・バーンリー

『チャイナ・シンドローム』(1979)の
キンバリー・ウェルズ

70年代の映画のヒロイン像に対しては、自己発見の追求と言えば聞こえはいいが、結局はわがままで自分のことしか考えていないと一般的に非難されるが、これは核心を見逃している。ヒロインたちは決して自分たちさえよければと思っているのではない。むしろ、家庭を越えて積極的にいろいろなことに関わっていきたいと模索している。そして、単に自分たちだけのためにではなく、人間全体の幸せのため、あるいは政治的な主張を込め、発言しているのだ。例えば、『ジュリア』では人権を、『ノーマ・レイ』では労働者の権利を、そして『九時から五時まで』では男女同一賃金を、『チャイナ・シンドローム』では核の安全を描いているなどが、良い例だ。
スーザン・ファルーディ『バックラッシュ』(1991)p.131

<男に頼るタイプの女性だから出世できた>

女性の意欲や自信を喪失させる意図で作られた映画では、知性を表に出さず人形のようなフリをしている女性だけが、私生活を犠牲にすることなしに職業的成功を手に入れることができた。『ワーキング・ガール』が良い例だ。メラニー・グリフィス演じる意欲満々の秘書テスは、有能さとは掛け離れた子供っぽい声が特徴。どこかぎごちない、男に頼るタイプの女性だったから、出世階段も上れ、意中の男性も獲得することができた。むずかしい専門技術や知識で成功したわけではない。タブロイド新聞のゴシップ欄で投資情報を見つけ、たまたま成功しただけ。しかも地位の高い男性の助けもあった。ロマンスの方も、眠れる森の美女のように男の腕で気を失って見せることで勝ち取った。
スーザン・ファルーディ『バックラッシュ』(1991)p.134

<女性の連帯を呪いの対象として描く>

『ワーキング・ガール』(1988)のテス・
マクギルとキャサリン・パーカー
[キャサリンのオフィスのシーンの後]

テスの出世の陰には、別の女性の失敗が設定されている。80年代の映画では、現実の企業社会と同じように、女性に許されている成功の椅子はいつでもひとつだけ。とりわけこの映画では、女性の連帯を呪いの対象にしている。
スーザン・ファルーディ『バックラッシュ』(1991)p.134-5

<キャリアウーマンは、母性がなく
仕事優先の冷たい女>

『赤ちゃんに乾杯!』は、『スリーメン&ベイ(訳文ママ)ビー』の原型ともなったフランス映画だが、アメリカでも大人気を博した。早速、パラマウントでは、アメリカ版の制作にとりかかった。アメリカらしさを出すために、新しい登場人物を加えた。ピーターのガールフレンドで弁護士をしているレベッカだ。三人の独身男たちが嬉々として赤ちゃんの世話をしているのを苦々しく思っている彼女は、赤ちゃんが手によだれでも垂らそうものなら、吐き気を催しそうになるほど、子供嫌いだ。ピーターが赤ちゃんの面倒を手助けしてほしいと懇願しても、彼女は嫌だと言う。母性のひとかけらもなければ、愛情も薄いレベッカ。ピーターが誕生日に一緒にいたいと誘っても、翌朝早くに仕事があるからという理由で断る。レベッカは、明らかに仕事優先の冷たい女というわけだ。
スーザン・ファルーディ『バックラッシュ』(1991)p.141

<誰でも相手構わず寝るような女は無責任>

<誰でも相手構わず寝るような男は問題ない>

80年代のアメリカの映画界は、自立した女の映画を歓迎しなかったのだ。罰することはあっても、健康で活力にあふれた人間として描くことはなかった。プロデューサーのグエン・フィールズの作品『パティ・ロックス』がいい例だ。例の『危険な情事』の後に公開された映画だが、ハリウッドのフェミニズムに対する仕打ちを端的に表した映画と言える。この映画では、自分の意見を持っている独身の女性が結婚もせず、セックスをエンジョイし、子供は自分だけで産むことを決め、しかも、そうした行為をしておきながら、何ひとつ彼女は罰を受けずに済んでいる。当時としては珍しい筋書きの『パティ・ロックス』は批評家からも評価され、反響は上々だった。しかし、ハリウッドの映画会社から受けた評価は敵意と拒絶以外の何物でもなかった。(映画の配給を)断られる理由はいつも同じだ。誰でも相手構わず寝るような女の映画は、"無責任"だと言うのだ。ところで、『スリーメン&ベイ(訳文ママ)ビー』では、主人公の独身男たち三人が無差別に種を撒き散らしていたが、全く問題にはならなかった。また、暴力シーンもなく、セックスシーンも準成人映画のそれとほとんど変わることがないにもかかわらず、検閲審議委員会では、『パティ・ロックス』を成人映画に分類しようとしていた。
スーザン・ファルーディ『バックラッシュ』(1991)p.142

ジョディ・フォスター『告発の行方』

グレン・クローズ『危険な関係』

メラニー・グリフィス『ワーキング・ガール』

メリル・ストリープ『A Cry in the Dark』

シガニー・ウィーバー『愛は霧のかなたに』

第61回アカデミー賞 主演女優賞を
ジョディ・フォスターが受賞

1988年のアカデミー賞で主演女優賞の候補に上がった女優は、1人を除いてすべてが犠牲者、あるいは被害者の役を演じていた。例外は、メラニー・グリフィスが演じたワーキング・"ガール"だけだ。最終的に受賞したのはジョディ・フォスター。
スーザン・ファルーディ『バックラッシュ』(1991)p.146

『バックマン家の人々』(1988)の出産病棟
のシーンはパンパースのCMのようだ

P&G『パンパース』(1992)

<レイプを肯定的に描くメッセージ>

『風と共に去りぬ』(1939)[飲酒シーンの後]

『こちらブルームーン探偵社』(1985-9)

※このページは、ジョーン・スミス『男はみんな女が嫌い』(1989)、スーザン・ファルーディ『バックラッシュ』(1991)
、ロビン・ワーショウ『それはデートでもトキメキでもセックスでもない』(1988)を参考にしました。
「」(スミス、ファルーディ、ワーショウ p.)と記載されている部分は、それぞれ、ジョーン・スミスさん、
スーザン・ファルーディさん、ロビン・ワーショウさんの個人的見解です。p.は著書のページ数から引用したものです。

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