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アフリカ系アメリカ人女性

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O.J.シンプソン事件

ロサンジェルスのフリーウェイで繰り広げられたポリス・カーとのカー・チェイス。当時わたしはシカゴにいて、皆と同じようにテレビを見ていた。
 テレビの前で、黒人でないアメリカ人たちは「早く捕まれ!」と思っていたのに、後で黒人の友人に聞くと、「逃げろ! 逃げろ!」と皆応援していた、と言う。
 テレビを観ていた大半の人は、シンプソンを個人的に知らない市民だ。彼が殺したのかどうかも真相はわからない。
 だけど「殺ったのは彼でしょう」と証拠が挙がる前から推測したのは非黒人であった。わたしは、「大体、潔白な人間だったら逃げる必要ないし、遺書めいたものも書く必要ないでしょう」と思って観ていた。
 しかし同じ時間帯に黒人たちは、「絶対にシンプソンはやっていない」と信じていたのだ。内心「もしやシンプソンが犯人では……」と思った黒人たちも「そうであってほしくない」と願っていたのは事実。
高山マミ『ブラック・カルチャー観察日記』(2011)p.103-4
「シンプソン無罪」の瞬間、テレビの前の非黒人たちは落胆のため息をつき、黒人たちは「やったー!」と声をあげて喜んだ-というのは、よくコメディやアニメで描かれる皮肉なシーンである。が、実際にも多くの黒人たちは喜んだ。
 落胆のため息をついた非黒人たちは、人種的な問題でシンプソンを有罪にしたかったわけではない。凶悪な殺人を犯した者が許されるべきではない、との当然の理由からだ。
 お金で優秀な弁護団を揃え、弁護団が優秀ならば有罪も無罪にできるとはおかしくないか?
 この裁判で市民が得た感想は、こういうものだと思う。
 ようするに、シンプソンはスーパースターでお金があったから裁判に勝てたと。お金があれば、殺人しても無罪になれるのだ。
 あんなに後味のよくない裁判も珍しいのではないか。
高山マミ『ブラック・カルチャー観察日記』(2011)p.105-6
 まともな感覚を持った黒人ならば、裁判の過程でシンプソンが犯人だということには、とっくに気づいていた。
 裁判で証拠の手袋をはめて、「小さすぎる」「入らない」とシンプソンがジェスチャーで訴えるシーンは有名だが、黒人の間でもあのジェスチャーはジョークでかなり流行った。子どもたちが冬に手袋をはめるときにいちいち「入らない」って顔をしてみたり、クリスマス・プレゼントが革手袋だったりすると、贈り主の前でそのシーンを再現しないわけにはいかなかった。
 保守的な黒人の年配層は、それを見ると困った顔をしていたけれど。

 犯人だとわかっていながら、なぜ無罪に喜んだかというのは、それは今までの過去の歴史が物語る。
 黒人たちはさんざん冤罪に泣いてきた。証拠もなにもない罪で牢屋にぶちこまれ、人生をそこで終えた人なんてざらにいる。
 証拠ねつ造なんて当たり前の時代に、白人たちの罪を黒人たちはさんざんかぶってきた。罪をおかしてなくとも、「黒人だから」という理由で有罪になった。歴史をひも解けば、黒人冤罪者たちの泣き声が聞こえる。
 だから、「シンプソンくらい例外でいいんじゃないか」というのが黒人たちの本音。黒人でもひとりくらい、有罪が無罪になる歴史があってもいいんじゃないか、と。
 そう思わずにいられないのはわかる気もするが、しかし、裁判がそんな「ご褒美」で罪滅ぼしをするようになったら、将来数百年に渡って黒人犯罪者を全部無罪にするくらいにしないといけなくなってしまう。
高山マミ『ブラック・カルチャー観察日記』(2011)p.106-7

アフリカ系アメリカ人とスイミングプール

異人種間交際

 異人種間結婚問題を扱ったシドニー・ポアチエ主演の社会派映画『招かれざる客』は1967年の作品。
 あれから約半世紀も経つのに、「おそろしいほどなにも変わっていないよ」と夫はつぶやく。
 今でも黒人と白人のカップルには、結婚となると両者の親を説得する課題が待っている。
 白人リベラル派から描かれたあの映画の中の話の方が、60年代とはいえよほどスムーズだ。
 最初は難色を示していた親たちも、半日もしない短時間でわが息子、娘たちを温かく送り出すことにしたのだから。
 白人の親にとってみれば、自分の子どもが黒人と結婚するなんて考えもしない人が多い。
 黒人の友人を多く持ち、黒人の大統領を選び、人種差別に反対しながらも、自分の家族に黒人が入るなんて想像することは、毛頭ない。
 そして「それ」が起こったとき、狼狽する。自分の本音と建前にうろたえる。
 本音と建前があること自体、それは無意識の、立派な人種差別なのだけれど。建前のきれいごとは、偽善に他ならない。
高山マミ『ブラック・カルチャー観察日記』(2011)p.81-2
『ゲス・フー』が面白おかしいのは、映画の中のお話だから。
 この映画のツボは、白人男性と黒人女性という、「ほとんどあり得ない」とされているカップルだからこそ、笑えるのだ。
 現実には、白人男性と黒人女性というのは、あまり結ばれない。
 「しょせん違う世界の人間だ」という思いが互いにあり、なかなか近づく機会もなく、遠い存在のままなのだ。
高山マミ『ブラック・カルチャー観察日記』(2011)p.83
「これがラブコメだったら、
きみがゾーイ・サルダナで、ぼくがア
シュトン・カッチャーってとこだな」
「なにそれ?」
 クリスはジュースをひと口飲んだ。
「《ゲス・フー 招かれざる恋人》っ
ていう昔の映画の話だよ。数週間前に
インフルエンザにかかってたときに見
たんだ。ゾーイ・サルダナとアシュト
ン・カッチャーが恋人同士なんだけど
、ゾーイの父親が、白人とつきあうの
に大反対するんだ。ぼくたちみたいだ
ろ」
アンジー・トーマス
『ザ・ヘイト・ユー・ギヴ』(2017)p.250

ブラックパンサー党

アフリカ系アメリカ人とフライドチキン

「なにしてんの、スター!」
ヘイリーが、もどってきたボールを
手にして叫び、わたしにパスを
寄こした。
「気合い入れて! ボールがフライドチ
キンだと思いなさいよ。そしたら、食
らいついてられるでしょ」
 え?
 なに、いまの?
 なんて言ったの?
 時間がわたしを置きざりにして流れ
ていく。わたしはボールを持ったまま
、ブルーのメッシュが入った髪をなび
かせて走っていく、ヘイリーを見てい
た。  信じられない……あんなこと言うな
んて。許せない。絶対に。(中略)
「いきなり、どうしたって言うの
よ?」ヘイリーが言った。
「どうしたかって?」声がロッカーに
跳ねかえって反響する。「さっきの
はなんなの?」
「ハッパかけただけじゃない! ただ
の、試合中のかけ声でしょ」
「フライドチキンのジョークが、試合
中のかけ声? 本気で言ってるの?」
「今日はフライドチキンの日でしょ!
さっきも、それをネタにして、マヤと
ジョーク言いあってたじゃない。いっ
たい、なにが言いたいわけ?」---
ヘイリーがそんなことを言ったのに、
だまってきいてたなんて信じられない
。ヘイリーはいつもそんな冗談を言っ
てたの? わたしもそれをきいて、笑っ
たほうがいいと思って笑ってたの?
 それがいけないんだ。わたしたちが
言わせておくから、むこうはますます
言うようになって、おたがいにそれが
当たり前のことみたいになってしまう
。言うべきときに、なにも言わないん
だったら、なんのために声があるの?
「マヤ」
「なに?」
「もう、ヘイリーに、そんなこと
言わせないようにしようよ」
マヤはふふっと笑った。
「マイノリティ同盟?」
「まあ、そんなとこ」
わたしも笑った。
「よし、決まりね」
アンジー・トーマス『ザ・ヘイト
・ユー・ギヴ』
(2017)p.123,270-1

動物の権利

交差性とは
なっている、または交差している社会的アイデンティティや、関連する抑圧や差別のシステムを指す
Weblioより

アフリカ系アメリカ人女性と髪

 ハリウッド映画を観ていると、美人黒人女優が雨の中をずぶ濡れになったりするロマンス・シーンがときどきある。
 「こんなシーン、嘘っぱちだよ!」と、黒人男性は笑う。
 好きな男に会いに行くのに、雨に髪を濡らしても平気でいられる黒人女性なんて、現実にはいないということらしい。だって、黒人女性は、恋人と一緒にシャワーを浴びるなんてこともしないのだから。
 映画にはウソが多い。

 暑い真夏日に水遊びで頭を濡らし、気持ちよさそうにしている黒人女性は本当に珍しい。(中略)
 わたしは、アメリカ黒人女性の「ストレートヘア信仰」を気の毒に思う。
 完全にメディアに煽られて、踊らされている。

 「縮れ毛は醜い。真っすぐな髪は美しい-」

 テレビやCMや雑誌で、人気黒人シンガーたちのさらさらストレートヘアに洗脳される。
 口に出しては決して言わないが、心底には、白人女性の髪に対する憧れがあるのだ。
高山マミ『ブラック・カルチャー観察日記』(2011)p.223-4
 映画『Good Hair』はアメリカの黒人女性たちに一番観てもらいたい作品なのだが、彼らにとっては真実を突きつけられるのが怖いあまり、観ていない人が多い。そんな映画を作ったクリス・ロックに、怒りさえ抱いている黒人女性も多い。
 黒人女性にとっては「あー、面白かった」という感想を持つどころか、一番痛いところをつかれた不愉快な映画なのだ。
高山マミ『ブラック・カルチャー観察日記』(2011)p.229
 ポール・マッカートニーとスティーヴィ・ワンダーのデュエット曲、<エボニー&アイボリー>(Ebony and Ivory)がヒットしたのは、もう30年前のこと。
 この曲を聞くと(あるいは思い出すと)、むしずが走るという黒人が多い。言い換えれば、この曲が好きだ(った)と言う黒人には出会ったことがない。(中略)
 この曲が出たとき、あまりに「コミカル」だと黒人たちは吹いた。
 「我々のインテリジェンスをバカにするな」と怒った黒人たちもいた。いや、黒人だけでなく白人たちにだって「バカにするな」と思った人たちはいた。
 あまりに低レベルな、「人種を超えて仲良く」ソングだったから。
高山マミ『ブラック・カルチャー観察日記』(2011)p.110-1
 マイケル・ジャクソンの<ブラック・オア・ホワイト>(Black of White)も人種を扱ったテーマだが、これは黒人たちも好きだ。
 <エボニー&アイボリー>には拒否反応を示すのに、こっちはOKなのかとちょっと意外な気もするが、その理由はやはりセンスの差なのだ。
 <ブラック・オア・ホワイト>の場合、黒人と白人の人種問題だけがテーマではなく、それ以上の深みがある。
 ポップなメロディはもちろんのこと、現実にありそうな、状況が浮かぶシーンを描く巧みな歌詞。

 マイケル(歌の中の「僕」)は、おそらく白人の女性を連れてクラブに行く。
 すると、おそらく白人と思われる男性から、「この女性は君の彼女?」と聞かれる。
 黒人は黒人同士、白人は白人同士のカップルが「常識」とされている世の中。質問した白人男性は、彼らを見て不釣り合いだと思ったから確かめたのだ。
 そこでマイケルは返す。
 「君が僕の彼女に興味があったとしても、僕は君が黒人か白人かなんて問わないよ」と。

 白人男性は、マイケルが黒人だったから問うたのだ。
 それに対して、マイケルは「僕は問わないよ」と皮肉に返すのである。

 「おそらく白人」と書いたのは、歌詞の中に彼らの人種は明記されていないから。だけどそれは明らかなこと。
 黒人男性なら、クラブでその経験をした人は多いであろう。人々は、まず黒人男性の顔を見、隣にいる白人女性の顔を見、「あなたたちカップル?」という顔をする。
 その顔をされるたび、黒人男性たちはうんざりしている。
高山マミ『ブラック・カルチャー観察日記』(2011)p.112-4
 キャロルは、5人の子どものシングルマザーになったので、「晴れて」生活保護者となった。
 しかも小学生以下の子どもが5人もいるので、受給額も大きい。それはキャロルの生活に「潤い」を与えている。両親の家に住んでいるのだから、食べものにはまったく困らない。
 しかしキャロルは、子どもを自分の両親にあずけっぱなしで、いつも外で遊んでいる。キャロルの髪はいつも美容院できちんとセットされ、ネイリングにもお金をかけている。そういうところを、他の女性は見逃さない。
 生活保護のお金を、子どもの養育費にではなく、自分の身だしなみに使っているのだ。
 「キャロルは大問題」と、ファミリー内でも頭痛の種になった。

 早速キャロルにボーイフレンドができたが、突然5人のステップファザーになりたい男性なんていないであろうから、男性側に結婚の意志なんてあるはずがない。(中略)
 生活保護という甘い汁によって、貧困母子家庭はどんどん生まれる。
 「いつかそのサイクルを止めないといけないのではないか?」と黒人たちに問うと、「生活保護を止めると黒人社会は暴動と犯罪が多くなり、とんでもなくおそろしいことになる」と心配する。
 福祉に頼らないで生きる人たちも生活保護の悪い面を十分に分かっているが、自分たちの安全を守るために、目をつむっているのかもしれない。
高山マミ『ブラック・カルチャー観察日記』(2011)p.47-9
 アメリカの黒人女性は、「黒人男性は自分たちの男」という意識が強い。
 自分の恋人や夫でなくても、黒人男性が非黒人女性と一緒にいるのをすごく嫌う。「われわれの男が盗られた」と、面白くない気分になるのだ。若い女性も年配の女性も。
 冷たい視線を浴びるのは、黒人男性と一緒にいる非黒人女性たちだけではない。黒人女性を相手に選ばない黒人男性には、黒人女性から「黒人失格」のレッテルさえ貼られてしまう。
 黒人以外のガールフレンドと歩いている黒人男性は、道で黒人女性とすれ違うときに、いきなりつないでいる手を離す、という笑い話もある。
 「この白人(アジア人)女性とはなんも関係ないよ」といった風に、他人のふりをはじめる。
 わたしは、夫に手をふりほどかれた経験はないけれど、「あ、やばい。向こうからブラックウーマンが歩いてくる!」なんてことは冗談で言ったりする。(中略)
 友人のシャーリーは、「仕方ないけど、ブラックウーマンって、そういうものよ」と言いながら、彼らのことは絶対に否定しない。当然ながら、彼らの気持ちの方がずっとずっとわかるのである、黒人女性としては。
 「わたし自身は、ぜんぜん気にしないんだけどね」と断ってから、シャーリーこうは(原文ママ)付け足した。
 「黒人男性と一緒にいる非黒人女性は嫌うべき、っていう暗黙の了解みたいなのが、わたしたち(黒人女性)の社会の中で植え付けられちゃってるからねえ……」と苦笑していた。
高山マミ『ブラック・カルチャー観察日記』(2011)p.233-4,237
 夫の末弟のアンドレは一時、とても美しい黒人の女の子と付き合っていたが間もなく別れた。
 親戚のおじさんが、「この間まで付き合っていた可愛い女性はどうしたんだ?」と聞いた。
 「だってブラックウーマン特有の文句文句で、毎日電話でもそんなの聞かなくちゃいけなくて、いい加減疲れちゃったよ」と、アンドレは言い切った。
 それを聞いていた親戚のおばさんたちは、とてもハッピーとは言えない顔をしていたのは当然だ。
 「なんでうちのファミリーの男性は最近、黒人女性とうまくいかないのかしらねー」と、別の日におばさん集団で文句をブツブツ言い合っていたことは、夫の口から聞いた。
 さすがにわたしがいる前では、その話題はできなかったのであろう。
高山マミ『ブラック・カルチャー観察日記』(2011)p.255-6
生きる知恵としてのレズビアン
 ジェニータは元から同性愛なのではない。レズビアンであることを選択したのだ。
 黒人コミュニティのなかで、女性は男性より選択肢がずっと少ない。恋愛にしても結婚にしても、黒人男性の相手は黒人だけではないが、黒人女性には黒人以外を選ぶという選択肢さえ最初から用意されていない。
 底辺社会では、まともな黒人男性に会うことは不可能に近く、子どもの父親になる男性と生涯に数回会うだけ、ということが多い。そもそも、幼いころから、父親の顔は見たことがないという人が多い社会なのである。
 性格的に問題を抱えていたジェニータは、ファミリー内でも厄介者であった。愛情はかけられたが、同時に疎むファミリーもいた。
 とくにジョナサン伯父は、ジェニータのような問題児が大嫌いで、血のつながりがないだけに彼女をおおっぴらに憎んだ。
 その問題児が未婚で子どもを産んでからは、ジョナサンの軽蔑はさらに加速し、ジェニータとはいっさい口をきかないまでになった。
 社会だけでなく、ファミリー内でも彼女は劣等感を抱えるしかなかった。
「好かれていない」という自信の喪失感は、母になることで少し回復したが、彼女には、寄り添い、共に生活する大人、いわゆるパートナーが存在しなかった。
 男性から好かれず、子どもさえいない(妊娠させてくれる男性がいない)という事実は、彼女たちの心をひどく傷つける。
 そこでたどり着くのが、レズビアンへの道なのだ。黒人コミュニティで虐げられた女性であればあるほど、この選択は珍しくない。
高山マミ『黒人コミュニティ、「被差別と憎悪と依存」の現在』(2012)p.111-2

※このページは、高山マミ『ブラック・カルチャー観察日記』(2011)、『黒人コミュニティ、「被差別と憎悪と依存」の現在』(2012)、
アンジー・トーマス 『ザ・ヘイト・ユー・ギヴ』(2017)を参考にしました。

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